●誓約





ドアをノックしようとして、手が止まる。


キルヒアイスに会って、俺は何を言おうというのだ。
この前のように泣きつくのか?
泣いて、その優しさに縋るのか・・?
あいつが拒絶出来ないのを知っていて俺は・・・


金髪の若者は掌をきゅっと握り締めた。
これ以上、甘えてはいけない。
心の奥で警鐘が鳴る。
姉とキルヒアイス自身のためにも、これ以上の甘えは許されないのだと。
そして何より、自分自身の気付いてしまった想いを断ち切るためにも。

(キルヒアイス・・・)
声にならない声を扉の向こうの主に囁きかけた。



元の場所に戻ると、黒髪の若者は慌てて椅子から立ち上がって深々と頭を下げる。
「申し訳ありません・・失礼なことをしました。」
「いや、俺の方こそいきなり座を外して失礼した。」
再び向き合って座った2人の間に、重苦しい空気が流れる。
「先程言ったことは嘘ではありません」
たどたどしくヤンが口を開いた。
僅かに外した視線がゆっくり黒髪の若者に向けられる。
「そうだろうな。卿は嘘を言える男ではない。」
「いえ、私は結構人を騙しています、が、今回のことだけは違います・・」
黒髪を指で弄りながら弁解した。
そうして落ち着きない様子で、グラスに残っている液体を喉に流し込む。
ふう、と溜息を付いた。
若い皇帝は微かに口角を上げる。
「先程のあれは好意の証と考えればいいのか?」
「あ! いや、その、まあ・・・そういうことです・・」
まるで乙女のようにヤンは顔を赤らめた。
ワインを注ぎながら、ラインハルトは少し微笑って。
「有難いが・・他にああいうことをして差し上げる相手がいるだろう?」
ヤンは真っ赤になった。
もう30過ぎたというのに未だに未婚のままである。
周りからは何かと言われるが、当の本人は特別焦ってもいなかった。
そのうちそういう相手が現れるだろう、くらいにしか思っていないのだ。

「恥ずかしながら、こんな気持ちになったのは初めてなのです。自分の気持ちを
持て余している、というのが正直なところです。」
「そうか・・」
「もちろん、陛下の気持ちが私にあるなどと思ってもいませんから、その点は
お気になさらずに」
「・・・そうか・・」
若い皇帝は、グラスに注がれた薔薇色の液体をじっと見つめたまま答えた。
ヤンは黒髪をかきあげてから、そっと金髪の若者を盗み見る。
長い睫毛が憂いを帯びて瞳を縁取っていた。
とても美しいのに、でも、とても悲しいと思う。
宇宙の覇者でも手に入れられないものがあるのだと、改めて感じていた。

「陛下の想いは・・届きませんか?」
ヤンの言葉に若い皇帝は微かに笑ってみせる。
ゆっくりと金糸を左右に振った。
「俺の想いは、大切なひとたちが幸せになることだ。姉上も、キルヒアイスも・・」
「陛下の幸せはどうなるのですか?」
「俺は、俺の想いが叶うことが幸せだ」
「・・・陛下もかなりの嘘つきですね」
「卿には言われたくないな」
2人は微笑って、それからゆっくりとグラスを上げる。
天空の星がちらちらと瞬いた。



キルヒアイスはその夜、眠れずにベッドの上で何度も寝返りを打っていた。
今日も、ラインハルトがヤンを呼んで話をしていたのを知っている。
明日にはいなくなる相手だとは分かっていても、無性に気にかかった。
ヤンとの親交が、この先の新王朝にとって有益なことと頭では理解出来ても
心はざわめいている。
ましてや、ラインハルトの気持ちが自分にはないと思い込んでいた。


どんなに想っても届くことはないのか?
親友という垣根を越えることは無理なのだろうか・・
こんなに想っていても
こんなに好きでも・・・


赤毛の若者はそっと部屋を出ると、宇宙の見えるテラスへ向かう。
眠れない時はいつもこうして心を落ち着けるのだった。
足を踏み入れると先客がいることに気付く。
その客はキルヒアイスに気付くと笑いかけてきた。
「奇遇ですね、元帥。貴方も眠れないのですか?」
「ヤン元帥?」
人好きのする笑いを浮かべて、ヤンは一礼する。
2人は並んで暫く宇宙を見上げた。
「陛下のことを気にされているのですか?」
ヤンの言葉に赤毛の若者はどきりと顔を向ける。
「昼間、陛下とお話しました。それからつい数時間前までご一緒でしたよ。」
「え?」
「私の我儘で今夜は付き合って頂いたのです。」
「そう、でしたか」
視線を俯かせて、黒髪の若者は呟いた。
「貴方のご心配は外れていますから。私としては非常に残念ですが」
キルヒアイスは驚いて目を丸くする。
ヤンには何もかもお見通しというのだろうか。

「ヤン元帥、貴方は何をご存知なのですか?」
探るような眼差しを黒髪の若者に向けた。
「どうでしょう・・少なくとも陛下の想いは知っていますが」
「想い?」
「ええ。悲しい・・想いです。とても」
「それは一体・・・」
「残念ながらそれ以上は、私の口からは言えません。私に言えるのは、陛下は
私のことを愛してはいない、ということだけですよ。」
淡々とそう言って、若い元帥は微笑ってみせる。
赤毛の若者は言葉を詰らせた。
一番気にしていたことを本人の口から聞いたのだ。
これ以上の安心はないはずだが、何故か無性に心が痛んだ。

「貴方は陛下を愛していらっしゃるのですね」
キルヒアイスの問いにヤンは肯定も否定もせず、ただ僅かに口元を綻ばせる。
それから天空に視線をやって、独り言みたいに呟いた。
「貴方も、でしょう?」
「・・・ですが、陛下は私のことをそんなふうには思っていないでしょう」
「何故、そう思うのです?」
「それは・・」
ラインハルトは事あるごとに、アンネローゼとのことを持ち出す。
”アンネローゼを幸せに”、それがラインハルトの願いならば、キルヒアイスは
その願いを叶えようと思った。
愛するひとの喜ぶ顔が見られるなら、例えそれが自分にとっての願いでなくても
構わない。

「そうですか。貴方らしいですね。」
黒髪の若者は穏やかに頷いた。
「でも・・大切なひとの真実の願いを聞き逃さないようにしてください。」
「真実の・・?」
「私は明日、ハイネセンへ戻ります。陛下をよろしくお願いします。」
「ヤン元帥・・」
「綺麗な星空ですね・・・」
もう一度、宇宙を仰ぎ見て呟く。


翌日、ヤン艦隊はイゼルローン要塞を完全撤退し、ハイネセンへ帰っていった。
長年に渡って同盟軍の所有となっていた要塞は、約5年ぶりに帝国軍の元に
戻ったのである。

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