●知らない過去
藍楸瑛は、先程まで親友といた府庫を後にして、貴陽にある藍家の邸へ向かっていた。 軒に揺られながら、府庫での話を思い返す。 『清苑公子の流刑地はどこだったと思う?』 『どこって・・・・・あっ!』 『そう、茶州さ。清苑公子が消息を絶ったのは冬の終わり。静蘭が邵可様に拾われた のはその年の秋の中頃と聞く。その間、彼はどこで何をしていたんだろうね。』 そう、本当に一体どこで何をしていたのだろうか。 自分が捜しにいっても結局見つけられなかったのだから ふと、楸瑛は浪燕青の存在に思い至った。 静蘭の昔の友人を名乗るこの男だが、邵可が知らなかったということは、当然 紅家の人々に出会う前の知り合いということになる。 ということは・・・・・。 楸瑛は行き先を邵可邸に変更した。 「すみません、藍将軍。燕青は今、黄尚書のお邸にご挨拶に行ってるんです。」 応対に出てきた秀麗は申し訳なさそうにそう告げた。 「そうですか。それは残念だったな。」 「藍将軍が燕青に用があるなんて珍しいですね。」 意外そうに秀麗は小首を傾げる。 「うん。茶州のことについてもう少し聞いておきたくてね。」 「そうですか。ありがとうございます。」 納得したように頷いてから、自分が就任する国のことを考えてくれる楸瑛に 心からの礼を述べた。 邵可邸を後にした楸瑛は、黄区にある仮面の尚書の邸に向かうことにした。 燕青と出会えればいいと思っていたが、果たして前方から見知った風貌の男が いかにも気軽そうに歩いてくる。 「燕青殿」 顔を上げた燕青は、声を掛けたのが思いも寄らない相手だった為か、しばし瞠目した。 「これは・・藍将軍さん。俺に何か用ですか?」 「ええ。ああ、こんなところではなんですから、近くに私の馴染みのお店があるので」 2人が落ち着いたのは、藍家ご用達の高級料亭のはなれだった。 こういう場に慣れていない燕青は、きょろきょろ辺りを見回しながら、しきりと感嘆の 言葉を叫んでいた。 「ところで、俺に話って何ですかね?」 「ええ。実は静蘭のことで少し聞きたいことが。あなたは邵可様に拾われる前の静蘭と 知り合いだったそうですね。実は私はその半年前までの彼を知っているのです。 その間、彼がどのようにしてあなたと出会い、過ごしていたのか、と気になって」 他人に気づかれない程度に、ほんの少しだけ燕青は表情を変えた。 「へ・・え、静蘭とお知り合いだったんですか。そりゃ大変でしたね」 「燕青殿、あなたはあなたと出会う前の静蘭のことを、彼自身の口から聞いていない のですか?」 「別に・・特に興味もないし、言いたきゃあいつから言うだろうし。」 「そうですか。では、先ほどの私の質問には?」 探るような楸瑛の瞳を真っ直ぐ見返した燕青は、僅かに口の端を上げた。 「悪いが俺の口からは言うつもりはない。聞きたきゃ本人に聞いてもらえますかね。」 楸瑛は引きつった笑顔で、はあ、とだけ答えた。心の中でひとりごちる。 (本人に聞けるなら苦労しないんだけどねえ) 楸瑛と別れた燕青は、貴陽での逗留場所としてすっかり定着している紅邵可邸へと 向かった。 (言えるわけねえよなあ。殺刃賊時代の話なんて) 口中で呟いて、大きな溜息を付く。 「それにしても、俺と出会う前の静蘭ねえ・・・・・」 空を見上げてしばし想像した後、ゆっくり視線を戻すと・・・・・。 「おわっ・・! 静蘭!!」 当の本人が冷たい視線を向けて、目の前に立っていた。 「何、アホ面下げて歩いてるんだ。」 「何だよ。いたんなら声かけてくれればいいのにー」 「気づくだろう、普通」 ふんとソッポを向くと、静蘭はさっさと先に歩き出す。 小走りに追いかけて横に並びながら、燕青は美形の友人をまじまじと眺めた。 (でも、俺と会う前ねえ。藍将軍と知り合いってことは一般庶民じゃあねえだろうな。 食べ方だってきれいだったし、妙に品があるっていうか。まあ、性格は悪いけどな。 タカビーだし・・・) あれこれ燕青が想像を巡らせていると、自分への視線に気づいた静蘭が睨みつける。 「お前、さっきからなに人の顔じろじろ見ているんだ。何か言いたいことでも あるのか。」 「え! や、いやいや何でもないって!」 慌てて目の前で手を左右に振る。ごまかさねば。 「いやー、相変わらず綺麗で可愛いなーって」 人差し指で細い顎をちょいちょいとつつきながら、にんまりと笑った。 と、空を切る鋭い音とともに、正確に燕青の不埒な手を狙って手刀が飛ぶ。 それを難なく受け止めた燕青は、繰り出した本人とずいと向かい合った。 「そうそう何度も同じ手に引っかかるかよ。」 「お前っ」 「なあ、静蘭。俺と会う前、藍将軍と知り合いだったんだってな。」 「は?」 唐突な言葉に、静蘭は一瞬戸惑う。 確かに、藍楸瑛とは見知った仲ではあったが。 「それってさ、結構、俺としては面白くないっつーか。」 「・・・」 「どういうふうに知り合い?」 至近距離で質問してくる危険なクマ男の口元を手で塞いで、そのまま押し戻す。 「それを聞いてどうする。昔のことだ。今は関係ない。」 「でもよ、静蘭。藍将軍の知り合いってことはそれなりの地位だったってことだろ。 お前、一体・・・」 燕青は見た目と違って脳みそまでクマではない。 ちゃんと真理を見抜く目も、感覚も持っていた。それを理解した上で、静蘭は言った。 「バカめ。14年前と言えば藍将軍はまだ11歳だぞ。子供同士の知り合いで 地位も何もあるか。」 「でも少なくとも貴陽にはいたってことだよな。それがどうして茶州へ来たんだ?」 静蘭は小さく溜息を付いた。 別に行きたくて行ったわけではない。 行きたくなどなかったのだ・・・・・幼い劉輝を一人残して。 静蘭の暗い表情を見て取った燕青は、彼にとって貴陽は、余りいい思い出がない場所 なのかも知れないと思った。 「お前には関係ないことだ。」 静蘭の吐いた言葉は、いつものようにそっけないものだった。 それでも。 燕青にとって静蘭と過ごしたほんの数ヶ月の日々は、決して忘れることの出来ない 濃い思い出だったのである。 「お前が話す気になったら聞いてやるよ。俺にとっちゃ、あの夏と、今、お前と一緒に いるってことが大事だからな。」 にっと笑う友人の顔を呆気に取られて暫く見つめる。 (話せるわけないだろう。私はもう”公子”であることを捨てたのだから・・・) 静蘭は薄紫の髪を軽く左右に振った。 それから数日後。 茶州へ旅立つ前に最後の食事会が開かれた。 後片付けもほぼ終わった頃、静蘭は楸瑛から話があると呼び止められた。 庭院の中ほどにある小さな池のほとりまで来た時、徐に口を開く。 「静蘭、君は茶州に行くのが辛くはないのかい?」 「は?」 「だって、茶州は・・流刑地だったところだろう」 「ああ・・。いえ、お嬢様をお守りする為なら私はどこへだって行きますよ。」 にっこり笑った静蘭の顔を見て、楸瑛は小さく苦笑した。 「君は消息を絶ってから邵可様に拾われるまでの間、どこで何をしていたんだい?」 僅かに薄紫の前髪が揺れる。 「実はこの前、燕青殿に何か知っているか聞いてみたんだけど、彼は教えて くれなくてね。聞きたきゃ本人に聞けって」 「・・・・・」 静蘭の反応を気にする様子もなく、楸瑛は続けた。 「私はね、静蘭、清苑公子に仕えたいとずっと思っていたんだよ。だから、年寄り達に 頼まれたこともあって、君を捜しに行ったんだ。だけど、君はどこにもいなかった。 一体どこに行ってしまったんだろう、ってね。」 「・・・」 「燕青殿と一緒だったのかい?」 「それは・・・」 言いづらそうに静蘭が口ごもる。 こんな彼を見るのは珍しかった。 楸瑛の中に嫉妬という種類の感情が芽生えてくる。 つと、細い顎に手をかけると、動揺が指先に伝わってきた。 「私の知らない君を燕青殿が知っているという訳か。・・・妬けるね。 だが、燕青殿も同じだ。彼の知らない「清苑公子」の存在を私が知っている訳 だからね。私が話さなければ彼は知らないままだ。」 「・・・燕青に話すつもりですか?」 疑心暗鬼の表情の静蘭に、楸瑛は軽く肩を竦めた。 「私を見くびらないでもらいたいな。私の口から話すことはないよ。」 静蘭の表情が僅かに安堵したものに変わる。 「”清苑公子”は私の中の「聖域」だからね。他の誰にも譲ってやらないよ。」 楸瑛の瞳がふと真剣味を帯びた。 「・・・たとえ、主上であってもね」 瞠目した静蘭に、楸瑛は掠めるような口付けを落としたのだった。 中天に満ち月が掛かっている。 夜風はほんのり熱気をはらみ始め、また夏が来ようとしていた。 自室の窓から空を眺めていた静蘭は、深い溜息を零した。 ほんの数時間前のことが思い出される。 (藍楸瑛にとって”清苑公子”とはそれほど価値のある存在なのか) 「よォ、静蘭! 何物思いに耽っちゃってんだ」 目の前に突然現れたクマ男に、静蘭は仰天して思わず後ずさった。 「全く、お前はどこからでも湧いて出てくるな。」 「虫みたいに言うなよなー」 「お前は虫だ。コメツキバッタ」 ブツブツ文句を言いながら、燕青は窓枠に手をかけたかと思うと、ひらりと 部屋の中に侵入した。 「・・・何で勝手に入って来てる」 「ちょっと話したいことあって」 ひんやりとした静蘭の視線に、燕青はへらへらっと笑って頭をかいた。 「夕食の後、藍将軍に呼び止められてたろ。・・何? もしかしてこの前のことか?」 何にも考えてなさそうに見えて、実は鋭い燕青に、静蘭も溜息をつく。 ずっと気になっていたことを聞いてみようか・・・。 「燕青、お前は私が何者なのか、気にはならないのか?」 数拍おいた後、答えが返ってくる。 「そうだな。ならないって言っちゃあ嘘になるかな。」 「そうか」 「でもお前が知られたくないんなら別に聞かねえ。お前はお前だからな。 言ったろ、俺は今のお前と一緒にいることが大切なんだって。」 太陽のような笑顔を向けた燕青はそう言って、徐に静蘭を抱き寄せた。 「・・俺はもう二度とお前を離さないって誓ったんだ。」 静蘭は、突然の燕青の行為に面食らいながらも、その腕の温かさに思わず抗議する ことを忘れていた。 そうだった。 この男はこういうやつだった。 昔がどうであれ、そんなこと気にしない。 相手がどれだけ本気で自分を見ているか。 そのことだけで相手の心を測る。 逆に言えば、本気で対すれば本気で返してくれるということ。 それは絶対の信頼。 「なあ、静蘭。言うの照れるけど、俺、お前のこと好きだぜ。多分、あの夏の日から ずっと。・・・そう、ずっとだ。」 耳元に響く言葉に、思わず静蘭は真っ赤になった。何を言い出すのだ、こいつは! 「何バカなことを言っている。お前にはもっと相応しい相手がいるだろう。」 そう。自分などではなく、もっと陽の当たる道を行く燕青に相応しい相手が。 「・・確かにお前は俺にはもったいないけどな」 ぽつりと呟いた燕青に、静蘭は眩暈がした。 全く理解っていないではないか。 「バカか! お前はもっと自分自身の価値を知れ!」 きょとんとした燕青の顔を見た途端、静蘭は自覚した。 (・・・しまった! 私は何を言っているんだ!) もちろん、時既に遅し。 嗅覚だけは優れているクマ男は、静蘭の”本心”を正確に理解していた。 にまにまと笑み崩れる。 腕から抜け出そうとした静蘭をぎゅうと強く抱きしめた。 「は、離せっ」 「やだ。愛してるぜ、静蘭」 「お前な!」 「なあ、静蘭。・・・抱いていい?」 静蘭は 瞬時に固まった。 「静蘭?」 「・・・・・・・ちょ・・」 「ちょ?」 「調子に乗るなー!!」 飛んできた拳をさらりとかわして、そのまま距離を縮める。 「残念だけどもう止まんねーよ。無理」 「ふざけたことを・・」 「・・悪い」 一言そう謝ってから、燕青は静蘭に口付けた。 上衣の袷を乱暴に肌蹴させる。 白磁の肌に指を滑らせると、小さく肢体が震えた。 「やべー、静蘭、俺、爆発しちゃいそうなんだけど」 「・・燕青、私を抱く以上、それなりの覚悟は出来ているんだろうな。」 「覚悟?」 またもやきょとんとする燕青に、静蘭は苦笑いした。 殆ど無意識に燕青の髪紐を解く。黒く濡れた髪が野性的な匂いを放って広がった。 「愛してるやつを自分のものにするだけだろ。覚悟なんてそれ以前の問題だ。」 「・・・お前らしい」 静蘭は小さく笑った。 「で? どーすんの?」 「・・・いいだろう。お前に私をくれてやる。」 「何だよ、それ。相変わらずタカビーなヤツだなー」 燕青は少し不満そうに口を尖らせた。 だが、ほんのり上気した静蘭の顔を見てとると、満足気に顔を綻ばせる。 「可愛いなー、静蘭」 にまにましているクマ男を睨み付けるが、今の燕青には恐いものなしだ。 「そんじゃ、遠慮なくいただきまーーす」 言い終わるか終わらないかのうちに、寝台に静蘭を押し倒すと覆い被さった。 「今夜は放さないからな」 耳元でそう囁いて、唇を塞ぐ。 公子のままでいたら、たぶん、きっと会うことはなかっただろう。 まして、こんなふうに繋がりを持つことなどは・・・。 次第に脳内が痺れていく感覚に身を任せつつ、静蘭は思った。 「静蘭、いい?」 瞼を開くと、黒檀の双眸がじっと見つめていた。 「ダメと言ったらやめるのか?」 「やめない」 「じゃあ聞くな。黙って、受け取れ」 「へいへい。・・・な、静蘭」 「・・・何だ」 「俺のこと、好き?」 「・・・・・・・」 「あ〜、ダンマリかよ。ずるいなー」 「燕青・・・」 「まあ、お前だって、好きでもない相手に抱かれるほど物好きじゃねえよな。」 「言葉にしなければわからないのか」 「んーー、お前の口から聞きたいなーって。」 「ふん、誰が言ってやるか」 「お前、ホント性格悪いよな〜。いいじゃん、そのくらい。減るわけじゃなし」 恨めしげに呟く燕青を無視して、静蘭は徐に上体を起こした。 「ごちゃごちゃ言ってるんなら、もう帰れ。」 「あっ、もう言いません。速やかに受け取らせていただきます!」 燕青は慌てて、もう一度静蘭を押し倒した。 「じゃ、行くぜ。泣いたって許してあげないからな」 「誰が泣くか!」 「そうか〜?」 にっと笑んで、静蘭の両足を抱えると、その情熱の塊を一気に貫いた。 (受け取るがいい、”公子”であるこの私を) 薄れゆく意識の中で、静蘭は心で叫んでいた。 例え、燕青が、この自分が公子だったことを知らなくても、 確かにそうであった事実は決して消えることはないのだと。 そんなことを、思った。 <END> |
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******************************* 作者コメント やっと書き終わりました〜(^^; 何だか2ヶ月越しのお話になってしまった(殴) 要は、静蘭が公子だった時代を知っている楸瑛と 殺刃賊だった時代を知っている燕青の対決っていうか(笑) お互い、自分の方がより静蘭のことを知っているぞ、と 自慢したかったのでしょうかねえ(笑) 静蘭にしてみれば、どちらも、知らない人にはバレたくない ことなんでしょうけど。 後半は、いちゃいちゃ双玉が書きたかっただけです(笑) (2009.11) |